満蒙開拓のミニ知識

満蒙開拓について、ここではあくまで基本的なことについて述べさせて頂いています。

まずは、一般には余り知られていない「満州」や「満蒙開拓」等についての

基本的なことを知って頂くことを主眼としていますので、学術的、専門的な視点

からはもの足らないと思いますが、前記趣旨からのことですので簡易化、

表現省略等はご容赦ください。


※「旧満州」、「満州」等の用語を使用していますが、これらを美化・賛美しよう等

の意図ではなく、歴史を正しくそのままに伝えようという意図によるものです。

「満蒙開拓」とは

満州に駐留していた日本の陸軍部隊、関東軍による満州事変を経て

1932年に日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」が建国されました。

 

当時の日本国内は世界恐慌のあおりを受け深刻な経済不況に陥り、

特に農村経済を支えていた養蚕業は大打撃を受け、農家は借金を背負い、

村や町といった自治体も負債を抱えていました。

 

1936年に「満州農業移民100万戸移住計画」が国策となります。

疲弊した農村の経済の立て直しや食糧増産などを目的に推し進められましたが、

背景には「満州国」の支配、防衛といった軍事的な目的もありました。

日本の戦況悪化、ソ連軍侵攻。結果として、約27万人の開拓団のうち約8万人がなくなったと言われています。

 

満州へ渡った開拓団の悲しい末路

1945年8月9日、ソ連侵攻で満州は戦場と化し、開拓団の人たちは広野を逃げ惑います。

戦力で圧倒的に勝っていたソ連軍に加え、日本の敗戦を知った現地の人たちも

各地で暴動をおこし日本人を襲撃しました。

 

逃避行を余儀なくされた人々は、満州の広野でコーリャン畑に身を潜めながら歩きました。

力尽きた母親が我が子を山に置いてきたり、川に流してきたり、

手りゅう弾で殺してもらったという話もあります。

また追い込まれた人々の壮絶な集団自決も多発しました。

 

敗戦国となった祖国日本からは何の援助もなく帰る手段もありません。

難民となった開拓団の人々は収容所生活の中、寒さと栄養失調、疫病で大勢亡くなりました。

子どもを中国の人に預けたり、売買もされたといいます。

「中国残留孤児」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

背景には壮絶な歴史があったのです。

 

満州国へ渡った農業移民、満蒙開拓団は全国から約27万人。

そのうち約8万人が犠牲になりました。

中には青少年義勇軍として組織された少年たちもいました。

 

 「満蒙開拓」は国策として大々的に宣伝され推進されましたが、戦後はあまり語られてきませんでした。

それは、あまりに壮絶な体験なのでご本人たちが語ろうとしなかった、

地域の中には満州行きを進めた立場の人もいて責任を問われていた、

開拓団が手に入れた土地の中にはもともと現地住民の農地だったものもあった、

など様々な背景がありました。

 

主な移民の形態

◆試験移民(武装移民)

1932(昭7)年から1935(昭10)年までの初期段階の移民を試験移民といいます。

当時、満州には抗日武装集団(日本人は「匪賊(ひぞく)」と呼んだ)が各地に存在していたこともあり、初期の移民は主に農業経験のある在郷軍人(予備役軍人)から選ばれました。

実際に襲撃にも遭い犠牲者も出るなどしたことから、第1次試験移民は約500名入植したうち3年間で162名、第2次も約500名のうち2年間で161名の退団者を出しました。

◆分村・分郷移民

1937(昭12)年、満州農業移民が国策として着手されてからは大量移民政策が実施され、同じ地方からの集団移民が組織されました。各県ごとに募集された開拓団のほか、町村が単独で送出する分村開拓団や、近隣複数の町村が送出母体となる分(ぶん)郷(ごう)開拓団が推進されました。

◆満蒙開拓青少年義勇軍(満州での名称は満州開拓青年義勇隊)

満州移民を推進するため1938(昭13)年から国が募集を開始しました。満14~18歳までの青少年で組織され、3年間の訓練期間を経て開拓団に移行し満州で農業の担い手になることが大義名分でした。

◆自由移民

国や県、市町村募集以外の開拓団です。

◆勤労奉仕隊

青年層を中心に農繁期の春から秋の数ヶ月間派遣されました。

◆帰農開拓団(転業開拓団)

農業以外の職種から満州へ移民し農業に転業した開拓団です。

用語集

満州国

1931(昭和6)年の満州事変で関東軍(日本陸軍の満州駐留部隊)が主要都市を制圧し1932(昭和7)年3月に建国したもので、現在の中国東北地方に位置する。日本の敗戦とともに消滅。国土は日本の約3倍の面積があり、漢人をはじめ朝鮮人、ロシア人など様々な民族が暮らしていた。「清」最後の皇帝溥儀(ふぎ)(映画『ラストエンペラー』のモデル)を元首としたが、政治の実権を握っていたのは日本であり権力の中枢には関東軍がいた。


満蒙開拓団

「満州国」に送り出された農業移民。この地域をかつて日本は“満蒙”地域と呼んだ。蒙は内モンゴルの一部が含まれていたため。1936(昭和11)年に「満州農業移民100万戸移住計画」という大量移民計画が国策となり、終戦までに日本全国から約27万人が渡っていった。村を挙げて送り出す“分村(ぶんそん)”や、複数の村が送り出す“分郷(ぶんごう)”開拓団のほか14,15歳で組織された青少年義勇軍も8万人近く送出された。

逃避行と収容所生活

終戦直前の8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻。成人男性は軍に召集されており、開拓団に残されていた女、子ども、老人たちの逃避行が始まる。日本人に抑圧されたり土地を追い出された現地住民らの積年の恨みが開拓団や一般の日本人に向けられ、略奪や襲撃にあう。各地で集団自決なども起こり、さらに戦後の収容所生活の中、飢えや寒さ、病気で大勢亡くなる。開拓団約27万人のうち8万人が命を落とした。

 


阿智郷開拓団

旧会地村、伍和村、山本村で編成された開拓団。本隊は昭和20年の5月に渡って行った。

満州の最も北東に位置する未開の原野で他地域との交流はほとんどなかったという。

ほどなくソ連の侵攻で逃避行を余儀なくされ、8月24日に佐渡開拓団跡で解団式を実施。100人近くがこの地で死亡。団員約190人のうち帰国できたのは47人。

中国残留孤児、残留婦人

逃避行や収容所生活の中で中国人を頼ったり預けられるなどして妻や子どもになり、戦後も中国に残留を余儀なくされた人々。そのうち満13歳以上だった女性を残留婦人という。1972(昭和47)年、日本と中国の国交正常化以降、本格的な身元調査がはじまり帰国が進む。現在までに帰国したのは約6,700人。


山本慈昭

阿智村、長岳寺の元住職。阿智郷開拓団の現地国民学校の教員として請われ、妻と娘2人を伴い本隊と一緒に昭和20年に満州へ渡る。逃避行の後、シベリアへ抑留され1947(昭和22)年に引き揚げ。戦後は中国残留孤児の肉親捜しに奔走し、「残留孤児の父」と呼ばれる。1990(平成2)年永眠。阿智村の名誉村民。


略年表

 

 西暦(年)  和暦(年)  
 1905  明治38

 日露戦争終わる

 満州での権益を入手

 1906  明治39

 南満州鉄道株式株式会社 設立

 1910  明治43

 韓国併合

 1912  大正元

 中華民国政府樹立 清王朝滅びる

 1915  大正4

 日本、中国に二十一か条要求

 1922  大正11

 ソビエト社会主義共和国連邦設立

 1925  大正14

 治安維持法公布

 1928  昭和3

 張作霖爆殺事件

 1929  昭和4

 世界恐慌始まる

 1931  昭和6

 柳条湖事件発生 満州事変始まる

 1932  昭和7

 「満州国」建国宣言

 リットン調査団満州へ

 第一次試験移民(弥栄村開拓団)

 1933  昭和8 

 国際連盟「満州国」不承認決議

 日本 国際連盟脱退 

 1934  昭和9

 土竜山事件勃発(抗日農民蜂起)

 第一試験移民の「大陸の花嫁」満州へ

 1936  昭和11

 二・二六事件 陸軍青年将校ら政府要人を暗殺

 広田弘毅内閣「満州農業移民二十ヶ年百万戸送出計画」決定

 1937  昭和12

 盧溝橋事件発生 日中戦争始まる

 中国 抗日民族統一戦線結成

 満州拓殖公社設立

 1938  昭和13

 国家総動員法公布 

 満蒙開拓青少年義勇軍渡満開始

 1939  昭和14

 第二次世界大戦始まる

 1940  昭和15

 アメリカ 対中支援を決定

 日独伊三国同盟

 大政翼賛会結成

 1941  昭和16

 日ソ中立条約

 太平洋戦争始まる

 1942  昭和17

 ミッドウェー海戦で大敗北

 1944  昭和19

 サイパン島陥落

 1945  昭和20

 開拓団成人男性「根こそぎ動員」

 2月 ヤルタ会談

 3月 東京大空襲

 5月 ドイツ降伏

 6月 沖縄陥落

 7月 ポツダム会談

 8月6日 広島に原子爆弾投下

 8月9日 長崎に原子爆弾投下

 8月9日 ソ連対日参戦 満州へ侵攻 


 

 西暦(年)  和暦(年)  
 1945  昭和20

 8月14日 ポツダム宣言受諾決定

 8月15日 日本無条件降伏

 8月18日 「満州国」崩壊

 9月 2日 降伏文書調印

 1946  昭和21

 5月 満州からの集団引揚げ開始

 1949  昭和24

 中華人民共和国成立(日本不承認)国交断絶

 集団引揚げ中断

 1952

 昭和27

 日本 中華民国(台湾)と平和条約調印

 中国 残留日本人の帰国援助を表明

 1953  昭和28

 民間団体による「北京協定」締結

 日本人後期集団引き揚げ再開

 1956  昭和31

 民間団体による「天津協定」締結

 1958  昭和33

 長崎にて中国国旗事件発生 国交断絶

 日本人後期集団引き揚げ中断

 中国大躍進政策始まる

 1959  昭和34

 未帰還者特別措置法(戦時死亡宣告)

 1966  昭和41

 中国 文化大革命始まる

 1971  昭和46  国連 中華人民共和国の代表権承認
 1972  昭和47

 アメリカ大統領訪中

 日中共同声明発表 国交正常化

 1974  昭和49  民間団体による中国残留孤児肉親調査始まる
 1975  昭和50  厚生省による中国残留孤児第1回公開調査
 1980  昭和55  民間団体による中国残留孤児訪中調査
 1981  昭和56  厚生省による残留孤児第1回訪日調査始まる
 1983  昭和58  財団法人中国残留孤児援護基金設立
 1984  昭和59  中国帰国孤児定着促進センター開所
 1985  昭和60  「身元引受人制度」創設
 1988  昭和63  全国15ヶ所に中国帰国者自立研修センター設置
 1989  平成元  「特別身元引受人制度」創設
 1991  平成3  残留婦人にも「特別身元引受人制度」適応
 1993  平成5  中国残留婦人強行帰国事件
 1994  平成6  中国残留邦人帰国促進・自立支援法公布
 2002  平成14  中国残留孤児国家賠償訴訟始まる
 2007  平成19  改正中国残留邦人支援法成立

満州の位置

「長野県開拓団対比表」について

長野県開拓団関係の読み仮名等も記載した「対比表」を作成いたしました。

当記念館専務理事寺沢秀文 監修作成のため、当表を対外提示等する場合には、

「満蒙開拓平和記念館作成」を明記して下さい。

下記よりダウンロードしてご利用ください。

ダウンロード
長野県開拓団対比表
長野県送出の開拓団等につき、その開拓団入植図の「全国版」添付図と「長野版」添付図とを対比し、その読み仮名等を整理したものです。
「全国版」とは全国拓友協会発刊の「満洲開拓史」を、「長野版」とは長野県開拓自興会発刊の「長野県満洲開拓史」を言います。
読み仮名等は、原則として長野県開拓自興会発刊の「長野県満洲開拓史」における読み仮名を採用しています。
長野県開拓団対比表(場所入).pdf
PDFファイル 205.7 KB

満洲移民に反対 大下條村長の肉声を書き起こしました。

先日、元大下條村の佐々木忠綱村長の肉声テープが記念館に寄贈されました。

その中で、満蒙開拓について語られた部分を書き起こしました。

貴重な資料かと思います。ダウンロードしてご覧ください。

ダウンロード
佐々木村長 音声書き起こし.pdf
PDFファイル 144.6 KB