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寄贈品№76

開拓地からの手紙 6通

吉林省黒石屯開拓団の遠藤末治郎さんから、滋賀県の家族に宛てた手紙。

恐らく1938(昭和13)年1月~5月  ※ここで詳しく紹介するものは4月12日の分 

サイズ(封筒)21.5×8.3、(便箋)18.6×22.3 

差出人 遠藤末治郎(滋賀県坂田郡米原町出身、黒石屯開拓団) 

 黒石屯開拓団の遠藤末治郎さんから、故郷のお兄さんたちへの手紙です。

 黒石屯開拓団は、大阪・京都・滋賀・奈良・三重・和歌山からなる混成開拓団で、1938(昭和13)年に吉林省敦化(現延辺朝鮮族自治州敦化市)に入植しました。

 末治郎さんは、まず東安省虎林県の黒咀子開拓団に入り、その後本来の入植地である黒石屯へ向かったようです。差出住所地から、黒咀子開拓団に所属中、森林伐採班として城子河へ赴いていたことが推察されます。

 手紙には入植後の様子が詳しく綴られています。三寒四温の気候、現地中国人や朝鮮人の農業のやり方、今後の団の建設計画を報告したり、新聞を読みたい、釣りをしたいから道具を送ってほしいと頼んだり、身近な話題にあふれています。娯楽の少ない満州の生活で、活字や釣りがひとときの喜びを与えてくれたことが想像されます。

 『満洲開拓史』(1967)によると、黒石屯開拓団の敗戦時状況は、在籍者519名のうち、帰還378名・死亡107名・未帰還34名となっています。

黒石屯,黒咀子,城子河位置関係


4月12日のお手紙について詳しく見てみましょう

<手紙書き起こし文 一部抜粋> (昭和13年か?) 4月12日 兄・遠藤仁平宛て 

 仮名遣い等は原文のまま。本来は縦書き。読みやすいよう適宜句読点を付し、明らかな誤字と思われる箇所は[ ]で補足した。

 

(1枚目表面の一部)

 入植後早や半月余大体の状況も解りました。

 今此冬に於ける気温は三寒四温に變りなく四温の日は夏シヤツ一枚の暖かさ、三寒には解氷期にあるのと風のある季節の今として春に似合わぬ寒さにて、シヤツの重衣をして作業に就きます。

 一冬越した経験はあまりにあつけなく感じました。今日から三寒に入ります。門外の木はビューゝ音を立てて寒そうにうなつています。

 昼前よりパラパラ雨が降って多分午後には休業となる事になると思います。雪は正月で二月前より見ません。地面の氷結も表面下尺余の解氷を見て既に水田の起耕麦類の播種も初まりました。当地は朝鮮に近い加減か村民の半数が鮮人でこれは水田一方、爾余の満人は畑一方の農業方法を営んで居ります。

 

(中  略)

(2枚目)

 新聞は二日三日毎に受取つています。議会の記事及各国間の動揺には面白く読みました。尚毎日楽しみに待つています。今日来た新聞の滋賀班等教育の大異動が載つてあると言ふなり私の良く見た中に引張りだこで、殊に団として未だ新聞を引いて居ない為、うえる様に春日の下で新聞にしがみついています。一枚の新聞がこんなに好果[効果]のあつたのは初めてで城子河の時分は少いと言つても各縣に一人宛位あり左程に感じなかつたのです。今後共御手数でせうが御願ひ申します。

 尚便り毎に御願ばかりで済みませんが、先頃近くの河を見て満人にも聞いた所魚が多くさんある由。亦の例の獲師[猟師]気分が頭をもたげて仕方がありません。今年の暮迄待つてと思ひましたが、どうも今年一年がもつたいない様な気がして次々の御願ひをする訳です。御面倒乍らお願ひ申します。

 一.投網 出来るだけ目の小さいもの

 一.サデの網だけ これも目の小さい方が結構です

 一.御経の本 日曜学校に使つている程度ので結構です。或ひは二階の本箱にあるかも知れません。

 投網の方は量がかさむ故都合で止めて下さつても結構です。来年故郷[帰郷]迄辛抱します。御経の本は皆と異つて一人限り部屋を作つて入つて見ると落着がよくいつも皆がうらやんでいますが、こうした所で精神修養もよかろうと思ひます。今日此頃は毎朝礼拝後心の力を読む事に定めていますが、ふと心を入れかへて少し仏の道を歩む気になりました。まだどうのこうのと言ふ迄の心はないのですが、御経でもあげていればいつかその心になれはしないかと言ふ気にもなつているのです。

 御願ひばかりの手紙になりましたが御許し下さい。

 先ずは近況迄。

                    末治郎

 兄上様 

手紙1枚目表面 (裏面もあり)

手紙2枚目


今回紹介した手紙のような個人資料からも、満蒙開拓や近現代史の一端を垣間見ることができます。

皆さんが暮らす地域にも、こうした歴史資料が眠っているかもしれません。