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鎮魂の夕べ2020 体験談・メッセージ紹介7

水曲柳開拓団等の想い出

 

私は、昭和19年(1944年)3月に大連朝日国民学校を卒業して、4月に哈尔滨中学校へ入学した。

昭和20年2年生の夏休みに7月8日から1ケ月吉林省水曲柳開拓団へ勤労奉仕に行った。

長野県下伊那郡から入植した開拓団だった。

 

2週間毎、2軒に泊まり、初めの家では、宮脇良夫君と一緒だった。先輩から開拓団では銀飯が腹いっぱい食べられると聞いていたので、愉しみにしていたが、主食は包米粥(玉蜀黍粥)だった。

前年の天候が不良で、米が採れなかったのだった。

仕事は、煙草畑の草刈りと、水田の雑草取りで、畑では牛に曳かせて鋤を使えるようになり、水田では米と、稗の区別が付かず苦労した。

倉庫に、煙草と、麻の筋の乾燥したのが積んであり、流通のよくないのを思い、牛乳風呂に入っては、バターを造る技術があったらと思った。

一週間位した夕方、宮脇君が入り口で、しくしく泣いていた。家に帰りたいとのことで、つい私も寂しくななった。

 

次の家は一人で、主人は26才で団役場勤務。眼鏡を掛けていて第2乙なので兵役は免除と。奥さんは24才で3才と1才の女の子があった。

乳牛・使役牛・日本馬を飼っていて、毎日馬の運動をさせて欲しいと言われ、毎朝馬に乗った。

馬は鞍を着けるのを嫌がり、台に乗って鞍を乗せようとすると、尻を振るので空振りになりひっつり返りそうになる。面倒なので背に麻袋を掛けて走った。お尻の皮は薄く、すぐ剥げて血が出る。ヨードチンキを塗ると飛び上がる程痛いが、乗馬は愉しく毎朝出かけていた。

8月初めに主人へ召集令状が届き、5日の夜送別会を、ランプの下で行なわれた。

 

8日に帰宅して、畳は柔らかくていいなあと思い寝ていたら、夜中に爆音がして外を見ると照明弾で明るく、関東軍が派手な演習をしていると思ったが、9日朝6時のラジオニュースで、ソ連軍の侵攻を知った。

 

15日まで学校へ行った。それまでに哈尔滨駅の側線には、奥地から避難して来た開拓団員の列車が沢山停まっていた。汽車通学だったので、帰途駅で、表に来ていた物売りから食べ物を買ってあげた。高い値段を言うので喧嘩腰だった。初めはこちらの言うことを聞いていたが、12日頃になると、もう言うことを聞かなくなり、大勢で取り囲み脅すようになり、怖くなった。

 

8月20日、ソ連軍が大型戦車群で侵入して来た。その大きいのに驚いた。両側に兵隊が5人位立ち並んでいた。住んでいた三棵樹(現哈尔滨東)満鉄社宅の日本人約2000戸は移動せず、ソ連軍 ・八路軍が来ても、父と姉が務めていた鉄道工場からは、給料が出ていて、生活には困まらず。

何時も3・4人、避難して来た兵隊さんや、青年がいて、何日か泊っては、大連へ南下して行った。

 

9月末頃、同級生の赤松勇君が、水曲柳開拓団の二人を連れてきて、彼の家は青年で満員なので、泊めてくれとのこと。団の小学校校長先生(後註)と、その甥(18才)だった。

先生は1週間程泊り、衣類をリュックに入れて、水曲柳へ帰った。奥さんと4才の女の子が待っていると聞いた。その後月に1度位に来て、家で集めていた衣類を運んでいた。

痩せ型で背が高く40才位。甥の青年は、そのまま居て、私と週2回位、哈尔滨の街へ近所から委託された衣類を売りに行った。彼は中国語が上手く、よく売れた。

 

11月に入り、長野県出身の人が哈尔滨で、濁酒を造っているのを聞いて、これを仕入れて、三棵樹で個別訪問で売り歩いた。何とか買ってくれる処があって、捌けた。

一升瓶1本80円で仕入れ、100円で売った。彼は儲け分を食事代だと母に渡していた。

 

1946年6月になり、引揚げの話しが出て来たので、水曲柳へ戻った。

私達家族は、1946年8月8日出発し、吉林廻りで葫蘆島へ出るのに1ケ月掛かり、10月12日に奈良県の親籍宅へ着いた。

 

水曲柳開拓団の一部が吉林へ避難したり、集団自決のことは、帰国してから、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館へ行って、資料を見るまで知らなかった。

 

〔註〕、小学校校長先生は、“高橋先生”と思っていたが、記念館で調べたら、姓は違っていた。時間を作ってゆっくり調べたいと思っています。〈森川行雄さん〉