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鎮魂の夕べ2020 体験談・メッセージ紹介4

私の満州

 

我が家族が渡満したのは昭和16年6月、第二次世界大戦勃発の年でした。

満州へ行けば、男子は兵役はなく、家、馬が提供されることになっていましたが、まったく話が違っていました。

着いた翌日から、山から材木を切り出し、自分たちで家を建てなければなりませんでした。

その後、手つかずの荒野を相手に、やっと米が獲れるようになったのが3年後の昭和19年、しかし、この頃から関東軍への米の供出命令が下りるようになっていました。

この間、我が家には、昭和17年に弟・文明が、昭和19年に妹・洋子が生まれていました。しかし、洋子が生まれた直後に父が山で大怪我を負ったのです。さらに、兄が肺炎に懸かり、母もまた目に怪我をして、零下30度の冬、家族の全ての生活が、10歳の私の身にのしかかってきたのです。

そして、開拓民の男子には兵役はないことになっていたのですが、昭和19年ごろから、ぽつぽつと召集令状がと届くようになっていました。昭和20年には「根こそぎ動員」がかけられ、父も応召していきました。開拓団には老人、女性、子供しかいなくなったのです。

そして敗戦、開拓民は、自分たちのことを誰も侵略者だとは考えていませんでしたが、日本人の立場が変わったとたん、開拓団に悲劇が襲います。

ところが、中国人中には、中国に残留した女性や子供を育ててくれた人たちがいたのです。

私の弟・文明も残留孤児となり中国で生をまっとうしました。

私の家族で帰国できたのは母、兄、妹、弟と私の5人、再会できたのは昭和28年のことでした。

戦争の傷跡は、癒えることはありません。

戦争は誰がためにするのか・・・

戦争を起こしたものが死ぬことはありません

平和は座して待っていても来はしません。守ることもできないことを日々学び、守り、積み重ねていくものだと思います。〈北村栄美さん(岐阜県揖斐郡池田町在住)〉


友よ、こたえは

 

いったい どれだけの 女たちが

空を見あげて 思い出しただろう

遠い 遠い ふるさとの空

 

いったい どれだけの 子どもたちが

腹をすかせて 泣いたのだろう

薄い 薄い 肌を刺す夜

 

いったい どれだけの 年寄りたちが

己の 無職を 嘆いたことだろう

長い 長い 旅路の中で

 

ふるさとを離れて 見知らぬ土地で

彼らが見たものは なんだったのだろう

彼らが望んだものは いったい なんだったのだろう

友よ こたえは 風に 舞っているのではない

 

こらえきらない涙の河 数え切れない奪われた命

彼らが見たものは なんだったのだろう

彼らが望んだものは いったい なんだったのだろう

友よ こたえは 風に 舞っているのではない

 

友よ こたえは・・・

 

〈北村彰夫さん(岐阜県揖斐郡池田町)北村栄美さんご子息〉