· 

鎮魂の夕べ2020 体験談・メッセージ紹介2

厳しい社会情勢の中、今年も鎮魂の夕べを開催していただきありがとうございます。不都合なことは思い出したくないのが人間ですが、引き上げの悲劇を知る人はコロナ禍程度ではおたおたしないでしょう。是非、多くに方に知っていただきたいものです。〈加藤まり子さん〉


父が15の年から満州で過ごしました。私は幼い頃から話を聞いて育ちました。著書「赤い夕陽と黒い大地」に詳しいです。戦争は許してはならないと思います。〈竹内真弓さん〉


中国帰国者の高齢化について研究しています。また、京都で帰国者の介護予防教室のボランティアをしています。皆さんが生き生きと日本で老後を迎えられる様な地域とはどの様なものかお教えください。〈牧田幸文さん〉


 「鎮魂」に込められている想いを汲み取りたいと思います。〈小林信介さん〉


黒川村の方たったかと記憶してますがテレビで拝見しました。壮絶でありえない程の女性が犠牲になり、帰国出来たのにも関わらず助かった同じグループ男性による汚れた女だと言い回され、散々な目に遭ってるにも関わらず恨まず。全くの他人の方のお話しですがテレビを見ていて腹立つし悔しくてしょうがないことだらけです。〈大野マコさん〉


1917年生まれの父は、予備役招集されて、満洲の国境警備隊として配備されました。最初の仕事が、ノモンハン事件の事後処理(遺体回収)だったそうです。戦争体験はあまり多くを語りませんでしたが、満洲のことを忘れるな、と教えてくれました。〈井上春樹さん〉


まだ私の知らない中国帰国者の事があります。〈佐藤良子さん〉


私の父は軍属でソ満国境の最前線に配属されていました。

ソ連軍スパイ、特務機関や斥候の情報から、ソ連軍の攻撃が開始されれば、トーチカは数十分しか持たないことが分ったこと、また、諸般の情報分析から日本の敗戦は明らかであることから、連隊に対するの関東軍司令部の命令(全員玉砕するまで闘え)、軍紀違反を承知で南方方面に転進後に全員帰国、家族は一週間後に専用列車を仕立てて全員無事敗戦3ヶ月前に帰国しました。

連隊の周辺には開拓団の方々もおり、開拓団も斥候をしておりましたから、状況は十分理解していたようですが、帰国しても帰るべき場所が無いことから、自分達か血と涙で開拓した土地を守り、現地に踏みとどまると決めたようです。

処で、トーチカ(コンクリート厚400mm)には20名が志願して踏みとどまり、ソ連軍と交戦しましたが、開戦20分後には壊滅したそうです。20名中4名が生き残ったそうです。〈大槻達夫さん〉


亡父は東寧という満州とソ連の国境であるウスリー川にある関東軍の要塞基地で重砲の弾道計算係をしていたそうですが、8月9日未明に真っ先にソ連軍重砲の砲撃を受けたのはこの国境にあった要塞部隊だったそうですが、分厚いコンクリートで出来た要塞は直撃弾にも耐えて8月15日も反撃の砲撃戦をしていたそうです。しかし、やがて砲身も赤く焼けただれて使用不能となり、亡父の中隊は敵の包囲網を真夜中に突破して森林地帯を彷徨しているうちにソ連軍に包囲されて捕虜となったそうです。その時、貨車に詰め込まれてシベリアに連行される亡父が見たのが満蒙開拓団の人々が粗末な身なりで線路を逆方向にとぼとぼ歩く姿だったそうです。亡父らは自らも過酷な運命が待っているのに、その時は「どうかご無事で帰還してください」と祈ったそうです。いつも、この話をしてくれる亡父は涙声でした。〈髙橋俊敬さん〉


私の母も満蒙開拓団の生き残りです。

長野県佐久村から渡満して牡丹江に入植しましたが、ソ連軍の侵攻により田畑や家、財産を捨て、逃げ惑うことになりました。

守ってくれるはずの日本軍の兵隊は真っ先に逃げてしまい、開拓団の団長も行方をくらまし、民間人だった母の父(私の祖父)が臨時のリーダーとなり、20数人の開拓団員を引き連れて、ソ連軍や中国人、匪賊に見つからないように山道を逃げたとのこと。

しかしだんだん疲弊していって、途中、体に怪我があり足でまといになる者や子供は死んでもらおうということになって、該当者を廃屋に閉じ込めて火をつけたそうです。

母の妹と弟もそこで命を絶たれたそうです。

ソ連軍の襲撃の卑怯なところは、空軍機の胴体に国際法で定められた国旗の表示がなかったことで、すぐ近くまで飛んできてソ連軍の軍機だと分ったときには機銃掃射の嵐で逃げようがなかった、あれは卑怯だ、と母は母はよく語っていました。

日本が降伏したことも知らずに、約一ヶ月、あてのない逃避行を続けていました。

母と家族はその後、ソ連軍に捕まり収容所暮らしをしますが、別々の収容所に入れられた父親は、見せしめに銃殺されたとのことです。

終戦から約一年後に日本に引き揚げることが出来ましたが、その間の壮絶な話も多々あります。

知人に中国残留孤児で身元が判明し、その後帰国された方もいらっしゃいます。

昭和8年生まれの母は87歳になった今もまだ存命ですが、若干痴呆も入ってきており、周囲の戦争体験もされた方も少なくなってきました。

しかし、決して風化させてはならないことだと思います。〈大木庸子さん〉


母が語り部をやっており、反戦、隣国の中国、韓国との友好を受け継いでいかなければと思います。〈原賢治さん〉


私の父(78)は、1942年1月満州で生まれました。父の父(祖父)は、農家の長男でしたが、満州で学校の先生をするために、実家の兵庫県丹波篠山町の農村から、祖父、祖母、叔父、叔母達と、家族で満州に移り住みました。(軍隊に入りたくなかったため、満州での教員を志望したと聞きました)。

終戦時には、祖父は南方アジア方面に兵隊にとられ、満州には祖母と父達子どもだけで生活していたそうです。

親族に不幸があり、たまたま一時的に日本へ帰国している間に、状況が悪くなり、満州に戻れなくなってしまい、終戦を迎えたそうです。幸い、引き揚げの混乱は体験せずに済みましたが、財産、生活用品、家財、大切な写真や手紙などは、すべて置いてきてしまったそうです。

その後、祖父は捕虜になり、終戦から2年後、やっと帰って来れました。髪の毛も髭も伸び放題、痩せてやつれきった姿で帰ってきたそうです。

父から聞いた話では、祖父から聞きたかったが、軍隊での体験や話しすることはなかったそうです。

満蒙開拓の歴史や悲劇について、私自身も知らないことが多いけれど、子ども達にも伝えていかなければならないと思います。

父と私の兄弟、私の子ども達と一緒に、満蒙開拓平和記念館をおとずれ、父の話しをしっかり聞きたいと思いながら、かなっていません。父の体調を考えると、実現できないかもしれませんが、子ども達とは一緒に満蒙開拓のことを学ぶ機会を持ちたいと思います。〈稲川登史子さん〉


70年代、鼎小学校に、残留孤児でいらした方のお子さんが半年間転校してきました。それが私と満州との出合いです。〈吉川由紀さん〉


私の村は、淡路島で唯一村を挙げて、昭和16年に満州開拓団を派遣したこともあり、村の歴史として当時のことを詳しく知りたいのですが、以前そちらに伺った時に見せていただいたような資料が残っておらず、思いはかなっていません。貴記念館が、一歩一歩着実に歩まれていることに賛同し、今後もねばり強く事業展開されますようご期待申し上げます。〈片山仁史さん〉